【 両親の理解 】

家族

今日、改めてわたしの病状について両親と話しました。

昨日、精神疾患について両親なりに調べたのでしょうか。

昨日のような『前向きに』発言は控えめになっていました。

最近では身の回りに精神疾患の方も多くなっています。それでも、自分自身や家族の身に起きなければなかなか理解は進みません。それは、精神疾患に限らずほとんどすべてのマイノリティの出来事についてそうなのだろうとも思います。

その点で、わたしの両親が少しでも精神疾患について理解を示そうとしてくれたこと、それはわたしにとってとても心強く、喜ばしいことでした。

休職にいたる経緯から、わたしの病状について両親に詳しく説明をしました。

説明後、母から、わたしは乳児の頃から躁状態の傾向があったような気がすると言われました。

乳児の頃は昼寝もせず、なにかと動き回っていたようです。

また、学生になってからは、あれもこれもと様々なことに手を出し、一気にやりきるということを繰り返していたとも言われました。

生まれてから高校生まで、実家で暮らしている間の躁状態の後、うつ状態は来ていたはずです。少なくとも、小学生時代にはうつ状態があったことは明確に覚えています。



ここから、少し昔話をします。

自我が芽生え始めた頃、ちょうど小学4年生の頃だったと思います。

自分というものを理解してから、わたしは自分自身の価値のなさを痛切に感じるようになりました。

人と比べて自分は劣っていると強く感じ、なんとか人並みにならなければならないと毎日毎日考えていました。しかし、自分の思うとおりというか、理想のとおりというか、そういうようにはいかず、そのたび落ち込むことを繰り返していたのです。

その頃から、わたしのこころの中は『死にたい』、『消えたい』でいっぱいになりました。

当時からあった完璧主義的な思考も相まって、人並みにできない自分がいやでいやで仕方がありませんでした。

人付き合いも上手くいかないことが多く、常に孤独を感じていました。

気持ちが落ち込んでいる間は、無気力、不眠、思考の偏りとまさにうつ状態でありました。

そして、自傷行為です。

小学生、中学生時代は自分の頭を自分で殴ったり、壁に打ちつけたり、太ももをつねったりしていました。そうすることで、こころの痛みが和らぐのですが、和らいでいることを意識してはいませんでした。無意識に行っていたのです。

決定的だったのは、高校生時代のリストカットです。

こころの痛み、苦しみが一瞬で和らぐのを感じました。最初は薄く皮ふを切る程度でしたが、最終的には一枚刃の剃刀で深く傷つけました。今でもその傷痕は消えていません。

両親は上記のような、うつ状態の症状については全く知りません。

両親は共働きで、父母共に忙しく、小学生の頃から両親になにかを相談するということはほとんどなかったように思います。話したところで、余裕のないふたりがわたしと真剣に向き合うということがなかったというのがその理由です。

リストカットについては、両親にうつ状態であることに気付いてほしいという最後の手段でもありました。しかし、『もうそんなことはしないように』と話し合っただけで終わりました。

そこから、もう両親に期待するのはやめようと思ったのです。

もし、あの時心療内科に連れて行ってもらえたならば。もしかしたら、わたしの人生は大きく変わっていたかもしれません。

このようなことから、両親に病状を打ち明けることは、とても恐ろしいことだったのです。

実家で療養することも提案されましたが、18歳のわたしはこの家からできるだけ遠くへ離れたくて、西日本へ旅立ったのです。年数回の帰省ならまだしも、またここで生活することは考えられないと答えました。病気を理解してもらってもなお、この家での生活は病状悪化の危険性があります。

今後、両親にはわたしの病状と休職中である状況を理解し、見守ってもらうことなりました。長い間、心に引っかかっていたことが、ひとつ、外れました。

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